米子・花園町遊郭跡|コウモリ窓と、暗渠に消えた遊郭の境界

鳥取県米子市。
山陰地方有数の都市として知られるこの街には、かつて「灘町遊郭」、のちに「花園町遊郭」と呼ばれた色街が存在していました。
現在はごく普通の穏やかな住宅街となっていますが、この土地のアスファルトを1枚めくると、往時の記憶が顔を覗かせます。
今回は、花園町遊郭跡を歩きながら、その歴史と建築の残照を辿ってみたいと思います。
スタートは米子駅前。 “銀河鉄道999”の誤解から始まる旅
今回の散策の始まりは、JR米子駅前から。
駅前の「だんだん広場」には、空に向かって今まさに飛び立とうとする、名作アニメ「銀河鉄道999」を彷彿とさせるSLのモニュメントが目を引きます。

最初は完全に松本零士作品の関連スポットだと思い込んでしまうのですが、実はこれ、アニメとはまったく関係がありません。明治時代に官設鉄道(現在の山陰本線)が境港から御来屋(みくりや)まで開通したため、「山陰鉄道発祥の地」を記念して作られたモニュメントなのです。そんなまぎらわしいSFチックな駅前から、いよいよ本題である「歴史の死角」へと足を延ばします。

灘町遊郭から花園町遊郭へ
米子は江戸時代、鳥取藩の商業の中心地として、人・物・金が流入する一大港町でした。港町に水商売や遊女屋が自然発生するのは歴史の必然です。
当時の鳥取藩は、表向きには公娼を認めない立場をとっていましたが、それはあくまで建前。実際には米子港周辺で、港の労働者や商人たちを相手にした遊女屋的な営業が、半ば黙認される形で江戸時代から連綿と続いていたと考えられています。
この色街の歴史における最初の転機は、大正初期に訪れます。
それまで港近くの市街地、灘町2丁目付近にあった遊郭に対し、「昼間から娼妓たちが街中を闊歩しているのは、教育上、そして風紀上すこぶる好ましくない」という世論が高まり、当時の町外れへと、遊郭丸ごと強制移転させられることになったのです。
この移転によって誕生したのが、現在の「花園町」にあたる新遊郭(新地)です。
つまり、
- 旧来の遊郭:灘町周辺(米子港の目の前)
- 移転後の新遊郭:現在の花園町
という流れになります。
面白いのは、移転して新しい場所に街を作ったにもかかわらず、長らくその場所の行政地名は「灘町2丁目新地」でした。そのため、昭和初期の文献でも一貫して「灘町遊郭」として紹介されています。
1930年(昭和5年)に発行された、色街マニアの聖書「全国遊郭案内」を開くと、灘町遊郭の欄には「貸座敷:33軒 / 娼妓:53人」というデータが刻まれています。
その後、1935年(昭和10年)の米子市の大規模な町名変更により、この一画は正式に「花園町」と名付けられ、名実ともに「花園町遊郭」という呼び名が定着していくことになります。
廃娼運動の波と、戦後の“赤線”への再編
昭和に入ると、全国で「公娼制度を廃止せよ」という廃娼運動が激化し、鳥取県でも貸座敷の規制が進みます。しかし、お上の規制が強まれば強まるほど、業者や彼女たちは、私娼化して地下へと潜っていくことになります。
戦後になると、花園町はGHQによる公娼制度廃止の流れの中で、今度は「赤線(特殊飲食店街)」として再編。そして1958年(昭和33年)の売春防止法完全施行によって、その長い歴史の幕を下ろしました。
妓楼建築の“残照”
現在の花園町周辺は、当時の喧騒が消え去った静かな住宅街です。しかし、丁寧に街路を観察していくと、一般の古民家とは異なる元妓楼らしき建物が生き残っていることに気づきます。
特に印象的だったのが、こちらの建物。

一見するとただの立派な古民家ですが、2階部分にはコウモリが羽を広げたような独特の飾り窓(透かし彫り)が取り付けられています。
遊郭建築において、月や松、富士山などの意匠は定番ですが、西洋や中国で「福を呼ぶ」とされる蝙蝠(コウモリ)をあしらった遺構は極めて稀です。これだけで妓楼だったと断定はできませんが、一般住宅にはあまり見られない独特の雰囲気を漂わせています。

近くでは、いかにも戦後のカフェー建築を思わせる建物にも遭遇しました。外壁はタイル張りで、袖看板を支えていたであろうフックも確認できます。


またこのエリアを歩いていて特に気になったのが、建物の奥行きです。花園町周辺には、間口に対して異様に奥へ長い建物が数多く残っています。
もちろん昔の商家建築などの可能性もありますが、一般住宅としてはかなり大規模で、元妓楼や転業旅館だった可能性を想像させます。

裏通りへ入ると、門構えが妙に立派な建物や、不自然に広い駐車スペースを持つ家も点在していました。もしかすると、奥行きのあった妓楼建築が解体され、その跡地だけが現在の住宅へ転用されたのでしょうか。
水路跡が伝える遊郭の境界線
同じく裏通りは、道路の舗装が途中で不自然に切り替わっています。
どうやらかつてここには水路が存在し、後に暗渠化されたようです。

遊郭では外界との境界として堀や水路が設けられる例も多く、この水路も街区の境界として機能していたのかもしれません。
現在は完全に住宅街へ溶け込んでいますが、こうした都市構造の違和感に、かつての色街の輪郭がわずかに残されています。

まとめ:米子の住宅街に残る“色街の輪郭”
現在の米子・花園町は、派手な観光看板もなければ、案内板ひとつない、どこにでもある住宅街です。しかし、そのありふれた日常の隙間には、
- 江戸時代から続く色街の歴史
- 灘町から花園町への移転と拡大
- 戦前の遊郭から戦後赤線への変化
- 住宅へ姿を変えた妓楼建築の痕跡
- 水路や道路構造に残る街区の記憶
といった、表の歴史には残りにくい“もうひとつの都市史”が今も埋め込まれていました。
ぱっと見では普通の住宅街。
しかし、そのアスファルトを少しだけ掘り起こすと、かつての遊郭の残響が、今も静かに息づいている――。
そんな米子・花園町の街歩きでした。
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スポット情報・アクセス
・訪問スポット:花園町(灘町)遊郭跡
・住所:鳥取県米子市花園町(Googleマップで開く)
・全国珍スポMAP(遊郭 / 赤線青線跡などジャンル別に絞り込みできます)













