ここは元青線──生きた昭和が残る山陰随一の歓楽街、米子朝日町

鳥取県米子市。
この地にある山陰地方最大級の歓楽街「朝日町」を歩いてきました。
スナック、居酒屋、ラウンジ、小料理屋などが狭いエリアに密集するこのエリアは、まさしく“地方都市の昭和繁華街が、当時のまま生きている”という表現がしっくりくる空気感をまとっています。
全国チェーンの店舗が並ぶエリアとは一線を画す、ネオン、雑居ビル、細い路地、そして年季の入った看板群。昭和の夜の温度が今なお息づくこの街が歩んできた歴史を辿ります。

ルーツは1912年の「山陰線開通」
現在の朝日町が繁華街として発展するきっかけになったのは、明治末期から大正初期にあたる1912(明治45 / 大正元)年のことでした。
この年、官設鉄道(国鉄)山陰本線の開通を記念した一大イベント「全国特産品博覧会」が開催されます。会場となったのは、米子高等女学校(現在の福祉保健総合センター「ふれあいの里」周辺)でした。約1カ月の会期中に約30万人もの来場者が押し寄せたと記録されています。もちろん平日と休日で差はあるでしょうが、当時の米子に毎日1万人と考えると驚異的な数字ですね。
そして、その博覧会の会場へと向かう主要な動線(ルート)上に位置していたのが、現在の朝日町周辺です。その頃はまだ現在のような夜の歓楽街ではありませんでしたが、このイベントを機に人の流れが生まれ、やがて飲食店や映画館、劇場などが集積。大正時代を通じて、米子有数の盛り場としての骨格が形成されていきました。
戦後、朝日町は“夜の街”へ変貌していく
戦後を迎えると、朝日町は表通りだけでなく、網の目のように巡らされた裏路地にまで飲食店が密集し、さらに大きく姿を変えます。
この時期の朝日町の性質を裏付ける興味深い資料が、1955(昭和30)年に発行された、色街研究のバイブル「全国女性街ガイド」です。同書の米子の頁には、次のような一文が書き記されています。
加茂川なる汚い川に沿い朝日町なるパン宿散在す<青江、文楽、松鯉など>。
おもしろいのは、その宿に「風俗飲食業」の看板がかかっている。考えたものだ。
ここで記述されている「パン宿」とは、戦後の青線的営業を行っていた簡易宿泊施設や特飲店を指す隠語です。お上の目をかいくぐりながら「風俗飲食業」という看板を掲げて営業していた実態が、当時の取材によって克明に記録されています。

花園町遊郭から“流れた”可能性
この1950年代半ばの記述は、米子の地理的・歴史的なタイムラインを考えると自然な流れにも見えます。
朝日町からほど近い場所には、「花園町遊廓(旧・灘町遊廓)」が存在していました。
戦後、GHQによる公娼制度廃止指令によって、全国の遊廓は解体されていきました。
米子でも花園町遊廓は公的には消滅します。
しかし、これですべての営業が消滅したわけではありません。全国の多くの事例がそうであったように、行き場を失った業者や女性たちの一部が、すでに盛り場として機能していた近隣の「朝日町」へと流れ込み、合法的な飲食店の皮を被った“青線”へと姿を変えて存続していったケースが推測されます。
資料的な確定要素はないものの、「全国女性街ガイド」が捉えた1950年代の朝日町の空気感は、まさにその流転の過渡期を捉えたものと言えます。

路地裏に漂う、“昭和アングラ”の空気
実際に歩いてみると、朝日町の魅力はやはり迷路のような路地裏です。
細い通路の奥へ進むと、看板だけが残された廃業スナック、タイルの剥げかけた雑居ビル、昭和のフォントをそのまま残したネオンサインが連続し、独特の雑然とした世界が広がっています。
特に印象的だったのが、「白拍子」という看板を掲げたスナック。
白拍子というのは平安時代から続く歌舞およびそれを演じる芸人のことで、それを踏まえると外観にあしらわれた大きな丸は伝統的な丸窓のようにも見えるし、朱塗りの大盃のようにも見える。朝日町とかけて“朝日”なのかもしれません。実にいろんな想像が膨らみ、朝日町の中でもかなり異彩を放っていました。

また、「サンキュー」と大書きされた看板も強烈です。
あまりに堂々と“感謝”されるので、逆にちょっと圧を感じるレベルでした。

今回、朝日町の一帯を駆け足で歩いた限りでは、いわゆる現在進行形の風俗店舗などは確認できませんでした。会員制や看板を出さない営業形態の可能性もあると思いますが。
それよりも、現在の朝日町は、アングラな風俗街というよりも、純然たる「生きた昭和の飲み屋街」として、地元の人々の夜の憩いの場という印象です。かつての青線の影は、あくまで街の遺伝子として底流に眠っているに過ぎません。
「新青江」の看板が意味するものは?
現地散策中は気づかなかったのですが、あとで映像・写真を見返していて気づいたのが、「新青江」という看板の存在です。
先ほどの「全国女性街ガイド」の中には、「青江」という名のパン宿の屋号が登場しています。
単なる偶然の同名なのか
当時の店舗の系列・生き残りなのか
屋号だけが後年に受け継がれたものなのか
その正確な真相は不明です。しかし、昭和30年の文献に載っていた名前が、令和の路地裏に「新」を冠して今も看板として掲げられているという事実。こうした“点と点が繋がっているかもしれない痕跡”をフィールドワークの中で発見することこそが、都市の裏歴史を歩く醍醐味です。
まとめ|「昭和の夜」が高密度で保存された都市遺産
現在の米子・朝日町には、均質化された現代の商業ビルにはない、濃密な都市のレイヤーが積み重なっていました。
- 大正期から続く盛り場の歴史
- 花園町遊廓との地理的近接
- 戦後の青線的空気
- 昭和ディープな飲み屋街文化
- 雑然とした路地裏の魅力
といった、“地方都市の夜の歴史”が濃密に残されていました。
再開発で均質化された繁華街とは違い、ここにはまだ、
「昭和の地方歓楽街とは何だったのか」
を五感で体感できる、生々しい都市の温度があります。
朝日町は、山陰の夜の歴史を今に伝える、極めて貴重な“生きた都市遺産”と言えます。
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スポット情報・アクセス
・訪問スポット:米子・朝日町の昭和レトロ飲屋街
・住所:鳥取県米子市朝日町(Googleマップで開く)
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