日本武道館だけじゃない!九段下の知られざる歴史スポット8選

音楽の聖地、あるいは学生たちの門出の場として知られる「日本(にっぽん)武道館」。
九段下駅からお目当てのライブを観るために坂を登り、終演後は余韻に浸りながらそのまま駅へと直行して帰る……ほとんどの人がそんなルートを辿るのではないでしょうか。
しかし実は、日本武道館のわずか数百メートルの圏内には、日本史の決定的な瞬間が驚くほど高密度に埋め立てられています。今回は、日本武道館周辺を歩きながら、その知られざる歴史を巡ってみました。
平将門伝説が残る「築土神社」
九段下駅から地上へ出て、日本武道館ではなく飯田橋方面へ歩いて1本目の通りを曲がるとすぐ、オフィスビルの深い死角に隠されるように佇むのが「築土(つくど)神社」です。
道路沿いには鳥居だけが建ち、本殿はビルの奥に隠れているため、知らなければ確実に通り過ぎてしまいそうな神社です。


940年創建のこの古社は、平安時代に朝廷へ反旗を翻し、東国に独立王国を築こうとした英雄にして大反逆者・平将門の「首」を祀ったことに始まると伝えられています。
当時は「津久戸明神」と呼ばれていました。
平将門の首といえば、東京・大手町にある「将門塚」が有名です。大蔵省庁舎の建設時や戦後のGHQによる区画整理の際、工事関係者が相次いで不審死を遂げるなど、“東京最恐の祟りスポット”として畏怖されている場所ですが、大手町は「飛んできた将門の首が着地したと伝えられる場所」。一方の築土神社は、「その首(あるいは首桶など)を実際に引き取って首座として祀った場所」という深い関係性にあります。それにしても、「将門塚」は大手町の超一等地にこれだけの広さを再開発されずに保ち続けるなんて、いかに平将門の怨念が強いか物語ってる気がしますね……。




実は築土神社は、もともとは現在の北の丸公園内(のちに紹介する旧近衛師団司令部庁舎付近)にありました。江戸城の拡張や都市開発のたびに移転を繰り返し、1994年に現在のビルの谷間へと落ち着いたのです。
そして興味深いのは、この築土神社が「日本武道館の鎮守(氏神)」であるという事実。武道館が建つ北の丸一帯が氏子地域であることに加え、祭神である将門が「最強の武人」として語り継がれてきたからこそ、日本の武道の殿堂を陰から守護しているのです。
軍人会館から生まれ変わった「九段会館テラス」
駅前に堂々たる風格で聳え立つ「九段会館テラス」もまた、激動の昭和史を生き抜いた巨大な遺構です。

現在は最新のオフィスや洗練された商業施設となっていますが、その前身は1934(昭和9)年に竣工した、旧陸軍のための施設「軍人会館」でした。
洋風のモダンなビルディングの上に、和風の瓦屋根を“トッピング”した「帝冠様式」は、昭和初期のナショナリズムを象徴する建築です。
ここは、1936(昭和11)年に発生した「二・二六事件」の際、反乱軍を鎮圧するための「戒厳司令部」が置かれた歴史の現場でもあります。終戦後はGHQに接収されて「アーミーホール」となり、返還後は「九段会館」として広く愛されましたが、2011年の東日本大震災で天井が崩落し、死傷者を出す悲劇に見舞われ、一度はその歴史を閉じました。
しかし2022年、貴重な歴史的建造物の大部分を保存・復原しながら、最新の高層ビルを融合させるという見事な再開発によって現在の姿へと生まれ変わりました。建物の片隅には、大山弥助(のちの元帥・大山巌)が考案したとされる「弥助砲」の砲身が、展示というよりは少々野ざらし気味に置かれているのも、実に珍スポ的な情緒を醸し出しています。
「陸の大山」と巨大な高灯籠
その弥助砲からさほど遠くない場所には、日清・日露戦争で日本軍を率い、「陸の大山、海の東郷(平八郎)」と称された元帥陸軍大将・大山巌の巨大な銅像が、今も眼下を睨みつけています。
さらにその脇、日本武道館の入口(田安門手前)に屹立するのが、1871(明治4)年建立の高燈籠です。


実はこの常夜灯、単に靖国神社の参拝客の足元を照らすための街灯ではありません。その真の目的は、「国のために命を捧げ、靖国に祀られた英霊たちの魂が、迷うことなくこの場所に帰ってこられるように」という“招魂の道しるべ”でした。
建立当時は九段坂の頂上(現在の道路の向かい側)にあり、周囲に遮るビルなど一切なかったため、その光は遥か品川沖を航行する船からもはっきりと見えたといいます。東京湾を進む船乗りたちにとっての灯台であると同時に、遠く離れた地で散った魂を導く“灯台”でもあったのです。
ライブへ急ぐ人たちの頭上で、明治の東京が灯した「祈りの記憶」が、今も静かに佇んでいます。

千鳥ヶ淵と牛ヶ淵は「江戸のダム」だった?
武道館の城門である田安門へ向かう土橋の上に立つと、ある奇妙な視覚的違和感に気づかされます。
右手の「千鳥ヶ淵」と、左手の「牛ヶ淵」。この2つの堀を見比べると、水面の高さがなんと約10メートルも異なるんです。



実はここ、単にお城を守るために人工的に土を掘り進めて造られた「堀」ではありません。
徳川家康が江戸に入府した当時、この周辺は地質的に井戸を掘っても塩分を含んだ海水混じりの水しか出ず、水不足の解消が急務でした。そこで、もともとここを流れていた局沢川という川の谷地形をそのまま利用し、大土手を築いて水を堰き止めたのが始まりです。つまり、ここは川を堰き止めて造られた「天然由来の貯水池(ダム湖)」だったのです。

江戸城の周囲は「内堀」「外堀」などと、土を掘った場所を意味する「堀」の文字が使われるのが一般的です。しかし、ここだけが「千鳥ヶ淵」「牛ヶ淵」と、水が淀む場所を指す「淵」と呼ばれているのは、ここが「掘った場所」ではなく、川の谷筋を堰き止めて生まれた「深い池」そのものであったことの、何よりの歴史的証明なのです。
千鳥ヶ淵の水位が一定以上になると、土手を超えて(くぐって?)下の牛ヶ淵へ流れるという、極めて合理的なステップ式の利水インフラでした。歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」の「九段坂」を見ても、ここが圧倒的な高低差を持つ巨大な貯水池であったことがよくわかります。現在は日本屈指の桜の名所ですが、その根底にあるのは、江戸時代の大規模な治水事業でした。





