八王子の裏歴史|都内唯一!?田町遊郭の元妓楼と大和田橋の空襲痕

多摩地域の中心都市・八王子は、かつて甲州街道最大の宿場町として、そして織物の街として栄えた豊かな歴史を持っています。
今回はそんな八王子の「裏歴史」にスポットを当て、かつての遊郭跡と戦争遺跡、そして江戸時代の刑場跡を訪ねました。

住宅街に突如現れる「田町遊郭」の痕跡
まずやってきたのは、八王子駅から約1.5kmの場所にある「田町」。
現在は住宅やスーパー、倉庫などが建ち並ぶ普通の街ですが、ここにはかつて「田町遊郭」がありました。現在も遊郭跡らしい広い道路が残っており、往時の街並みをかすかに感じることができます。


八王子は江戸時代、甲州街道沿いに15の宿場が連なる「八王子十五宿」として発展し、飯盛女を抱える旅籠も多く存在していました。
年号が明治に変わってからも飯盛旅籠は貸座敷として営業を存続しますが、大きな転機となったのが、明治30年(1897年)4月に発生した「八王子大火」。市街地の3,000戸以上が全焼したこの大火をきっかけに、町中に点在していた貸座敷が田町の一角へと移転・集約され、田町遊郭が誕生しました。
ちなみに「田町」という地名は、遊郭が整備された当時、周囲一面が田んぼだったことに由来しているそうです。
空襲の危機を逃れ「RAA」から「赤線」へ
昭和5年(1930年)発行の「全国遊郭案内」によると、当時の田町遊郭は貸座敷14軒、娼妓約100人という規模だったようです。
吉原や洲崎などと比べて決して大規模な遊郭というわけではありませんが、八王子を代表する歓楽街として長く栄えます。
しかし1945年8月2日未明、大規模な空襲が八王子を襲いました。
この「八王子空襲」ではB-29爆撃機約180機が来襲し、約450人が死亡。1万4,000戸以上が焼失し、当時の市街地の約80%が焼けましたが、田町遊郭一帯は焼失を免れます。

そして戦後、日本政府や警察の手によって占領軍(米兵)向けの慰安施設組織「RAA(特殊慰安施設協会)」が設置されると、田町遊郭もその拠点に。田町遊郭には多くの米兵が訪れ、八王子駅から遊郭まで長い行列ができたという記録も紹介されています。
その後、性病の蔓延などを理由に米軍から「オフリミット(立ち入り禁止)」が発令。米兵という客を失った業者たちは日本人男性向けの営業へとシフトし、いわゆる「赤線地帯」へと転換していきました。そして1958(昭和33)年の売春防止法施行により、明治から約60年続いたその歴史に幕を下ろしたのです。
都内で唯一!?「戦前の妓楼建築」
現在の田町を歩いていて驚かされるのが、遊郭時代の建物が一部残っていることです。
木造の重厚な佇まい、そして軒下に残る丸い電灯——。木々に覆われ静かに佇むその姿は、かつて妓楼として使われていた建物に相違ありません。近くには「赤線跡を歩く」(木村聡著)などで元妓楼「蓬莱」として紹介されている建物(現・福田荘)も残っています。正面からの印象以上に奥行きがあり、内部の中庭や板塀の佇まいから、当時の格式の高さがうかがえます。







都内の遊郭・赤線跡に残る建物の多くは戦後にできた「カフェー建築」ですが、このように戦前の木造妓楼そのものが残っている例は、極めて珍しい存在と言えます。前述の「赤線跡を歩く」によると、東京の貸座敷免許地で戦災を免れたのは八王子、千住、品川の3カ所だけだったそうで、八王子は都内で唯一戦前の妓楼建築が残る場所として紹介されています。




