四国

遊郭・赤線を経て、ちょんの間へ|高知・玉水新地を歩く

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高知県高知市の西側、路面電車の旭町一丁目停留場から南へ進むと、鏡川の北岸に「玉水町」と呼ばれる住宅街が現れます。
ここにはかつて「玉水新地」と呼ばれる遊郭がありました。
木村聡「消えた赤線放浪記」や、八木澤高明「色街遺産を歩く」でも取り上げられ、多くの遊郭・赤線愛好家を惹きつけてきた玉水新地。
今回は、そんな玉水新地の歴史をたどりながら、現在の街並みを歩いてみました。

とさでん交通「旭町一丁目駅」
とさでん交通「旭町一丁目駅」

玉水新地の始まりは明治5年

玉水新地の歴史は、明治初期までさかのぼります。
昭和5年(1930年)発行の「全国遊廓案内」によると、玉水新地は明治5年(1872年)に許可を得て開設されました。同書には「貸座敷は27軒、娼妓224人」が在籍していたと記録されています。

江戸時代の土佐藩制下では、芝居や料亭などの文化・娯楽が厳しく統制されていましたが、明治に入って解禁。鏡川の河畔に形成された玉水新地には妓楼や芝居小屋などが集まり、三味線や鼓の音が響く賑やかな街だったそうです。
現在の玉水町からはなかなか想像できませんが、明治から昭和にかけて、この一帯は高知を代表する歓楽街の1つだったわけです。

小説「陽暉楼」と老舗料亭「得月楼」

玉水新地の歴史を語るうえで欠かせないのが、宮尾登美子の小説で映画化もされた「陽暉楼」のモデルであり、現在も高知市内で営業を続ける老舗料亭「得月楼」の存在です。
得月楼の前身である陽暉楼は、明治3年(1870年)に松岡寅八によって玉水新地で創業しました。
陽暉楼は会席料理の導入や文人墨客を招いた大墨画会の開催など文化的アプローチを展開し、県内屈指の料亭へと成長。毎晩1000人を超える客を迎えたとも言います。

明治11年(1878)年、西南戦争から凱旋した陸軍中将・谷干城(たに たてき)の歓迎宴が陽暉楼で催された際、谷が詠んだ漢詩の一節「近水楼台先得月 向陽花木易為春」にちなんで「得月楼」と改名。その後、明治中期に玉水新地から稲荷新地へ本店を移転し、現在の歴史へと続いています。

往時の雰囲気を忍ばせる木造建築
往時の雰囲気を忍ばせる木造建築

戦後の公娼廃止と「赤線」時代

昭和21年(1946年)のGHQ指令による公娼制度廃止に伴い、玉水新地は遊郭としての歴史にピリオドを打ちましたが、その後は特殊飲食店による赤線地帯へと移行します。
昭和30年(1955年)発行の「全国女性街ガイド」には、「赤線は、戦前『上の新地』といった玉水一帯に118軒、461名」と記録されており、戦後になってもかなり大規模な女性街だったことがわかります。そんな中、昭和33年(1958年)に売春防止法が完全施行されると、赤線としての営業は終わりを迎えました。

現在の玉水新地を歩く

現在の玉水町を歩くと、住宅地にまじって昭和期のカフェー建築や転業旅館が点在しています。
中でも目を引くのが、ファサードにモザイクタイルがびっしりと貼られた建物です。
タイルを使った装飾的な外観は、まさにカフェー建築そのもの。
現在ではこうした建物もかなり少なくなっており、玉水新地を代表する景観の1つになっています。

さらに特徴的なのが、道路から一段低い位置を流れる水路沿いのエリアです。水路に沿って「旅館 日高」「旅館 都」といった看板を掲げた建築群が並んでいます。これらは一般的な観光旅館ではなく、いわゆる「ちょんの間」として維持されてきた場所。視界を遮るように木々が植えられた小道を実際に歩いてみると、営業の気配を感じさせる建物も残っていました。

高知・玉水新地のちょんの間
現役のちょんの間

高知市の現在の風俗街は中心部のはりまや橋に近い境町に集まっています。それに対して玉水新地はひっそりと息を潜め、遊郭や赤線としての歴史を終えてから半世紀以上が経過した今も、かつての面影を残しながら生き残っています。
そんな哀愁漂う雰囲気こそ、玉水新地の魅力なのかもしれません。

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スポット情報・アクセス

・訪問スポット:玉水新地
・住所:高知県高知市玉水町(Googleマップで開く)
・全国珍スポMAP(遊郭跡などジャンル別に絞り込みできます)
・得月楼(公式サイトはこちら)

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