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「原爆スラム」と呼ばれた街|広島・基町アパートの戦後史を歩く

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広島市中区の基町(もとまち)地区には、20階近い高層アパートがまるで巨大な屏風のように連なっています。現在は約4,000人が暮らすこの地区は、かつて「原爆スラム」と呼ばれたバラック住宅密集地と密接な関係があります。

今回は、相生橋から本川沿いを歩き、基町中層アパート群、そして近代建築としても評価される基町高層アパートへと足を延ばしながら、この街がどのように姿を変えてきたのかを辿りました。

原爆ドームと相生橋

散策の起点となる相生橋は、上空から見てT字形を成す特徴的な形状から、原爆投下の目標とされました。
実際には風などの影響で原爆は相生橋から南東方向にある島病院付近の上空約600mで炸裂したのですが、相生橋周辺も爆心地から近かったため、大きな被害を受けています。原爆ドームはこの相生橋のすぐそばにあります。


そして今回歩く、相生橋の北側に広がる基町地区も、原爆によって焼け野原となりました。
戦前・戦中の基町一帯は、広島城を中心に軍事施設が集中していた場所でもあります。
戦後、基町一帯は国の管理下に置かれましたが、深刻な住宅不足を背景に、戦災者向けの住宅用地として利用されるようになりました。

戦後、基町に建てられた「十軒長屋」

被爆によって深刻な住宅不足に直面した広島市は、1946(昭和21)年6月、基町地区に「十軒長屋」と呼ばれる応急住宅を建設します。基本的な間取りは、6畳と4畳半の部屋に土間、トイレ、庭。ただし、水道やガスは通っておらず、住宅難をしのぐための簡素な長屋でした。

こうした応急住宅を建てても、住宅不足は簡単には解消しません。
戦後の広島では市街地の区画整理や道路・公園の整備が進められ、それに伴って立ち退きを迫られる住民も増えていきます。
平和公園の建設に伴って中島地区から移転してきた人々なども基町周辺へ流入し、行き場を失った人々は本川沿いの土手などにバラック住宅を建てるようになりました。
こうして、基町には次第に大規模な住宅密集地が形成されていきます。

本川沿いに広がった「原爆スラム」

現在、本川沿いは緑地や護岸が整備され、のどかな散歩道になっています。

広島・本川沿い
現在の本川沿いの様子

しかし、かつて相生橋から三篠橋方面へ続く約1.5kmの土手沿いには、多くのバラック住宅が密集していました。復員兵や引揚者、市内の再開発や区画整理によって立ち退きを迫られた人々などが、トタン板を使って家を建てていったのです。
住宅の配置は無秩序で、細い路地が入り組んでいました。一方で、そこには町内会があり、郵便や配達も届いていたといいます。つまり、単なる一時的な避難場所ではなく、1つの「まち」が形成されていたわけです。
こうした住宅密集地は、やがて「原爆スラム」と呼ばれるようになります。
広島市公文書館の調査でも、この地域は「基町/相生通り(通称『原爆スラム』)」として記録されています。1960年頃になると、この相生通りのバラック住宅は約900戸にまで膨れ上がっていました。
現在の本川沿いからは、とても想像できない光景です。

原爆スラム
川沿いに密集する原爆スラム(広島市公文書館所蔵)

ちなみに1973年公開の映画「仁義なき戦い 広島死闘篇」ではこの原爆スラムでロケが行われ、当時のリアルな様子を見ることができます。

1950年代から始まった基町の再開発事業

こうした住宅問題の解決に向け、広島市と広島県は1956(昭和31)年度から1968(昭和44)年度にかけて市営・県営の中層鉄筋コンクリート住宅(930戸)を整備しました。この一部が現在も現存する基町中層アパート群です。

しかし、中層住宅の供給は十軒長屋など既存の公営住宅の建て替えが中心であったため、本川沿いのバラック群の解消には至りませんでした。

そこで事態を抜本的に打開するため、1968(昭和43)年に大規模な再開発事業が始まります。
この再開発の中心となったのが、現在の基町高層アパートです。
現地交渉と順次移転・解体・建設を繰り返すローリング方式により、約10年の歳月と226億円という巨費をかけて街全体の造り替えが行われていきました。

基町高層アパート
1978年に最後の高層住宅が完成し、同年10月に基町再開発事業完成記念式が行われた(梶川祐治撮影/広島市公文書館提供)
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