昭和レトロ

“最初の吉原遊郭”があった人形町、江戸の記憶が残る街を歩く

人形町
chinspotwalker

東京都中央区・人形町。
甘酒横丁や老舗飲食店が軒を連ねるこの街には、今なお“江戸の粋な空気”が色濃く残っています。

一見すると落ち着いた風情ある下町。しかし、路地を一本またぐだけで、この街はまったく別の“過去の記憶”を覗かせてくれます。今回は、人形町に幾重にも折り重なった江戸〜東京のディープな歴史の痕跡を辿って散歩したいと思います。

始まりは湿地帯。そこから「江戸歌舞伎の中心地」へ

現在はオフィスや飲食店が立ち並ぶ人形町ですが、もともとこの一帯は広大な湿地帯でした。

1590年、徳川家康が江戸へ入城すると、大規模な埋め立てや都市整備がスタート。およそ30年ほどの歳月をかけて、現在の街の原型が作られていきました。

街に大きな変化が訪れたのは1634年。江戸三座のひとつ「村山座」がこの地に開かれます。さらに1651年には同じく江戸三座である「中村座」も移転してきました。これにより、人形町周辺は一躍“江戸歌舞伎の中心地”として栄えることとなります。

芝居小屋が集まれば、当然そこに関わる人々が集まります。浄瑠璃や操り人形芝居の小屋も集まり、周辺に多くの「人形師」たちが移り住んだことから、のちに「人形町」という地名が定着しました。

人形町のからくり時計
人形町通り

しかし、この大衆娯楽の聖地には、“もうひとつの歴史”が眠っています。

実は「吉原遊郭」はここが始まりだった

目抜き通である人形町通りには「からくり櫓」が設置され、多くの観光客や会社員で賑わっています。しかし、この通りには「ここがかつて吉原だった」ことを示す案内板がさりげなく置かれているんです。

人形町のカラクリ時計
からくり櫓
人形町にある、元吉原の案内板
元吉原の案内板

一般的に「吉原」と聞くと、多くの人は台東区千束のほうを思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、吉原遊廓が最初に作られた場所は、実は現在の人形町周辺でした。

吉原遊廓の誕生は1617年。
当時、まだ整備中だったこの辺りは「葦(よし)」が生い茂る湿地帯だったことから、当初は「葭原」と呼ばれていました(葦と葭は同じ意味)。しかし、葦の別の呼び方は「アシ」。「悪し」に通じて縁起が悪いということで、縁起の良い「吉」の字を当て、「吉原」と表記されるようになったそうです。
遊郭には多くの客が訪れるため、その周囲には芝居小屋や飲食店も集まり、周辺は巨大な歓楽街として発展していったというわけです。

転機となったのは1657年の明暦の大火。江戸の大部分を焼き尽くしたこの大火災によって、初代吉原は壊滅します。その頃には人口も増えていたため、遊廓は幕府の命によってより郊外だった現在の千束エリア(新吉原)へと強制移転。以降、この人形町の地は「元吉原」と呼ばれるようになりました。

遊廓が去った後の跡地には料理屋や茶屋が集まり、今度は「芳町(よしちょう)」と呼ばれる格式高い花街へと姿を変えて、街の歴史を繋いでいくことになります。

吉原の記憶を今に伝える2つの遺構

そんな元吉原の歴史を今に伝える貴重な場所のひとつが、「末廣神社」です。

人形町の末廣神社
末廣神社

少なくとも1593年にはこの地に存在していたとされ、当時は「稲荷祠」と呼ばれていました。この神社はまさに吉原遊廓、そして後の芳町花街を見守ってきた「鎮守(守り神)」なのです。

境内の玉垣に目をやると、そこには「葭町藝妓藝妓屋組合」と刻まれた文字がはっきりと残されています。遊廓が消え、花街へと変わっていったこの土地の変遷を、これ以上なくリアルに物語る痕跡です。
元吉原時代の建物こそ残っていませんが、この小さな境内には、当時の熱気が閉じ込められています。

人形町の末廣神社の玉垣
「葭町藝妓藝妓屋組合」の文字見える

そしてもうひとつの遺構が「大門通り」です。
察しのいい人はおわかりだと思いますが、遊郭の入り口に大門があったことからそのように名付けられました。かつて洲崎遊郭があった現在の東陽町にも同じく「大門通り」があります。

人形町の大門通り
案内標識
人形町の大門通り
大門通り

また真偽は不明ですが、この建物と建物の間の暗渠のような細い道は、遊郭を囲っていた溝の跡だとも言われています。

人形町
吉原時代の遊女逃亡防止の溝とも言われているが果たして

谷崎潤一郎生誕の地も

人形町の路地を巡ると、もうひとつの歴史に出会います。文豪・谷崎潤一郎の生誕の地です。

谷崎は、この地にあった祖父経営の「谷崎活版所」で産声を上げました。その後、父親の事業失敗によって近隣の借家を転々としたそうですが、幼少期にこの地で肌で感じた江戸情緒や下町の喧騒が、後年の名作たちに影響を与えたことは想像に難くありません。
(※現在、生誕地には「谷崎」というレストランがありますが、文豪との直接的な血縁関係はないようです)

人形町にある谷崎潤一郎生誕の地
人形町にある谷崎潤一郎生誕の地

東京屈指の老舗グルメの密集地帯

人形町を語るうえで外せないのが、ここが江戸・明治・大正から暖簾(のれん)を守り続ける、東京屈指の老舗グルメの密集地帯であるという点です。
このブロックでは、それらの老舗をいくつかピックアップします(初音だけ写真を撮り忘れました……)。



玉ひで

宝暦10年(1760年)創業。明治24年にこの店で生まれたのが、今や国民食とも言える親子丼。2022年からの改修工事が完了し、2025年にリニューアルオープンした“進化する”江戸の名店。

人形町の玉ひで
甘味処 初音

天保18年(1837年)創業。東京で最も古い歴史を持つと言われる甘味処で、店名は歌舞伎の演目「義経千本桜」に登場する「初音の鼓」に由来する。「あんみつ」が看板メニュー。

玄冶店 濱田家

大正元年(1912年)創業。かつて人形町周辺に数多く存在した芳町花街の伝統を今に伝える、この街に唯一残された高級料亭。「玄冶店」とは、江戸時代の高名な幕府の医者・岡本玄冶の屋敷があったことに由来する。

人形町の玄冶店 濱田家
柳屋

大正5年(1916年)創業。麻布十番の「浪花家総本店」、四谷の「わかば」と並び、東京の「たい焼き御三家」に数えられる。職人が1丁ずつの鋳型で直火で焼き上げるたい焼きは、パリッとした薄皮の中に上品な餡が詰まった逸品。

人形町の柳屋
喫茶去 快生軒

大正8年(1919年)創業。創業から100年以上、人形町の交差点近くで街の移り変わりを見守ってきた大老舗喫茶店。店名に冠された「喫茶去」とは禅の言葉で「まあ、お茶でも飲んでいってください」という意味。

人形町
㐂寿司

大正12年(1923年)創業の老舗寿司店。戦火を免れ、大正期に建てられた格調高い木造2階建ての店舗が残る。ひらめの昆布締めや、きすの朧締めなど、江戸前寿司の伝統を受け継ぐ。

人形町
人形町 今半

もともとは1895年に本所吾妻橋で牛鍋屋として創業し、戦後に暖簾分けで独立。この今半が建っている場所は浪曲寄席「喜扇亭」の跡地。その記憶を継承するように、現在の今半の1階では鉄板焼「喜扇亭」が営業を続けている。

人形町今半

戦災を免れた“レトロ建築の宝庫”

人形町の歴史散歩がこれほどまでに面白い大きな理由は、ここが東京大空襲の戦災の被害が少なかったエリアだからです。

そのため現在でも、

  • 看板建築
  • 銅板葺き建築
  • 昭和初期の商店建築

が、今なお現役の姿でゴロゴロと残されています。

特に目を引くのが、壁面を覆う銅板葺きの看板建築です。本来は茶色い銅板が、長い年月をかけて酸化し、「緑青」と呼ばれる美しい青緑色へと変化した姿は、まさに都市が重ねた年齢そのもの。

ただ散策するだけで、視界が歴史の資料館に変わる。これが人形町の真の魅力です。

人形町のレトロ建築
人形町のレトロ建築
人形町のレトロ建築
人形町のレトロ建築
人形町のレトロ建築
人形町のレトロ建築

まとめ:歩くほどに「都市の履歴書」が書き換わる街

人形町は、

  • 江戸歌舞伎のスターが喝采を浴びた中心地
  • 千束へ移転する前に存在した「吉原」の故郷
  • 芸者たちが行き交った芳町の花街の風情
  • 親子丼や牛鍋の歴史を紡ぐ老舗グルメのメッカ
  • 空襲を生き延びた、レトロ建築の聖地

これらすべての時代の記憶が、地層のように折り重なった街。
ただの下町グルメタウンとして通り過ぎるには、あまりにももったいない、東京屈指の歴史散歩スポットでした。

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スポット情報・アクセス

・訪問スポット:人形町(人形町商店街)
・住所:東京都中央区日本橋人形町(Googleマップで開く
全国珍スポMAP(遊郭 / 赤線青線跡などジャンル別に絞り込みできます)

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